自己愛性人格障害とそのパートナー 無価値感を抱える2人
恐ろしく脆く弱い自己を抱えた人達。
”自分は、小さく、弱く、惨めな、価値のない人間だ”
という思いを幼い時に感じ、確信してしまった人達。
その思いに直面することがあまりにも辛くて耐えられず、特別に優れた人間であると、どうしても信じる必要があった。そして、信じ続ける必要があるのだ。そうでなければあのどうしても直面することのできなかった辛い思いを再現してしまう。それは彼らにとって自己の崩壊ともとれる一大事。
自己愛性人格障害の人達は幸せになることができない。当然その家族も幸せにすることができない。
彼らの生きる目的は、幸せになることではないからだ。
彼らの生きる目的は、その脆く小さく弱い自分を、絶対に他人に悟られないように(そして自分にさえまでも)特別に優れた人間として生きること。
建設的な良い人間関係を築いて幸せになるよりも、それはずっと優先度の高いことなのだ。
脆く弱い人間であることを気づかれてはならないという(自分さえも気付いてはいけないという)、その恐怖に基いて彼らは生きている。
酷く攻撃的に見える彼らは、実は誰よりも保守的なのだ。それほど、守る必要がある弱い自己を抱えている。
人間というものは本来良心的なものだと私は思っている。彼らにしてもそうだったはずなのだ。しかし、恐怖による行動がそれを覆い隠す。
その恐怖が一番強いのが自己愛性人格障害の人達ではないだろうかと思う。彼らも本来は良心的な人間なのだ。しかし、脆く弱い自分に気づかれてはならない、そんな自分を感じることに耐えられないという自分でも気づかないその強迫的な思いが、本来の彼らの姿をかき消してしまう。
そして、それは 非常さ、残酷さ、傲慢さ、冷淡さ、となって現れる。
自己愛性人格障害の人間が身近にいて苦しんでいる人は多いと思う。だから、ここで同情的な事を書くともしかしたら反感を買うのかもしれないが、
なんか、人間って、つらい生き物だな、と。
本来、彼らもそんな人間ではないはずなのに。
ま、私の身近にいたのは、自己愛性人格障害の中でも、暴力を振るうほどではなかったので、こんなことが言えるのだろうけど。そして、もう距離が離れてしまったことも大きいのだろう。
正直、今の私には少しかわいそう感がある。
これからも、幸せになる選択よりも、弱さに気づかれない為の選択をして生き続けるんだろうな、という。
さて、ここからが結構本題なんですが。
自己愛性人格障害のパートナーである人。
この人も同じく
”小さく、弱く、惨めな、価値のない自分”
という自己を抱えている。
だが、恐らく彼らとは反対に、それをひた隠しにしようとするタイプではない。
どちらかというと、その自己はもう表に現れていて、自信のない、従順なタイプであることが多いのではないだろうか。わたしがそうであったように。
無価値感を抱えていない人には、どれだけ自己愛性人格障害の人間がいい人を装うとも、そこにある違和感を感じることができるのだと思う。
だから、緊密な関係になることなどあり得ない。
だけど、あの頃の私は違った。見抜けなかった。
それどころか、自信があって、強く、明るい、社交的な人間だと思っていた。
私の持つ無価値感ゆえに、私は人間として未熟だったということだ。
そしてこれまた未熟さゆえに、私は”守られたい感”の強い人間だった。"守られなければ生きていけない弱い人間”というのが潜在意識下にあったのだろう。
その相手として彼は格好の人間であったということだ。
無価値感ゆえに、守ってくれる強い人間を求めていた私と、
無価値感ゆえに、自分は強いと思わせてくれる弱い人間を求めていた彼。
需要と供給がぴったり合ったと言う訳だ。
だから、あなたがもし自己愛性人格障害のパートナーのこと苦しんでいるなら、まず、
自分の無価値感を認識すること。それと向かい合っていくこと。
幸い、多くの場合、自己愛性人格障害のパートナーはその弱さを隠そうとするタイプではないので、無価値感に向き合うことはそう難しくないのでは、と私は思う。自分の経験上ではあるが。
ある意味、自己愛性人格障害の人間より、そのあたりは強いのではないか、と思えるほどだ。(弱い自分に直面できるという意味で)
現実面では、もし離れることが可能なのであれば、離れるのが良いかな、とは思うけど
それが難しい場合は、無価値感と向かい合い続けてみる、そうすると何らかの変化があるかと思う。それによって、相手と離れることになるのか、離れずとも現状がよくなっていくのかはわからないがどちらがだろう。
スピリチュアル的に言うと、波動が同じでないものは一緒にいることができないらしいので、あなたの無価値感が小さくなれば、相手は離れていくか、相手も変わっていくか、のどちらかということになる。
何はともあれ、このブログのテーマである、無価値感の浄化に励んでほしい。必ずあなたはその恩恵を受けるはずだから。
浄化についてはこちらもご参考に。
信じ続けられなくなることは、ある意味、自分の終わりを意味するのだろう。それが、果てしない成功への渇望として現れる。
ただ、皮肉なことに、もし彼らが自分の終わりを体験するほど打ちのめされたなら、それは彼らの